ビートルズの影響で趣味から思考回路まで一変した著者が日々の出来事と彼らとの接点を綴ります。できるだけ様々なアングルで書きたいと思います。

Flying

飛行機に乗っていて、あのふんわりしたインストの1曲が頭でなってた。

Fool on the hill

家に帰って近くの丘を眺めてたらこれがなりはじめた。



旅にちょっと疲れたかな


思ったより早く用は済んだので、来週には日本を出て旅をしてからNZに帰ることにした。

日本は大変だなあ。それが感想かな。先進国でリッチな国なのだろうけれど、大変だ。
今日は労働者の最低時給が600円台(だったかな?)になるとかならないとかのニュースも見たけれど、ちょっと驚いた。農業国のNZですら最低賃金は時給で11ドル。ほぼ1000円くらい。年収300万円でも立派な家に住み、緑に囲まれて生活する国。でも、世界では日本のほうがはるかに先進国。

日本は会社やトップの勝ち組という人にはいい社会だろけれど、切捨て御免の国になってしまったのかもしれない。

ニュースを毎日見ていて、ちょっと苦しささえ覚えてしまった。なぜなら、NZではこんなニュース自体がないから。みんなが金持ちじゃないけれど、生活苦で自殺する人もホームレスも皆無。こんなニュース自体がテレビで出てこないのだ。一度だけ、何かの理由で家がない人のニュースが流れたことがあったけれど、ものすごい社会問題になった。納税者で社会に貢献しているのに、最低保障もない人が出ていることに国民が黙っていなかったのだ。テレビでは大臣が詰問されて、翌日には解決に向かって国が動き出した。たった一人の困惑にも、社会がそれを見逃さない。民主主義の基本を教えられた。

一度、NZで日本の政治が腐敗だらけだけど長い間変わらないという話をしたら、誰も信じてくれなかった。「ありえない」というのだ。今は、彼らの発言も変に納得してしまうけれど。


でも、今回の滞在は有意義だった。いいことも悪いことも再認識できたし、自分がやりたいこともまた認識できた。まだしばらくビートルズブログらしくなるには時間もかかりそうだけれど、とりあえず歪んだ方向性だけは修正できてよかった。

滞在中、ジュリアンレノンの1stアルバムを聞いてた。Valotteという当時はヒットした曲だけれど、聞いてて涙してしまった。いままで気づかなかったけれど、これはジュリアンは少なからず(もしかしたら完全に)ジョンを思って書いた曲なのだと思ってしまった。歌詞がまさに。

初めて聞いたのが20年以上前。当時は音楽として聞いていただけだけれど、今は海外暮らしも長くなって聞いてて歌詞が自然に入ってくるようになったということか。知らぬうちに俺も少しは成長したんだな。

またしばらく休眠。



日本の夏の独り言。

この国は他国からは平和で国民教育水準が高く謙虚な国民性が好印象を受けているのはすばらしい一面だなあ。確かに、そんな風な印象がある理由もわかる。とにかくオトナシイ。

でも、正直言っておとなしくて謙虚な一面だけではなく、幼稚でなにも知らないから話せないし議論もできないというのも事実なのかもしれない。謙虚というのは、実体を伴ったところで実像をひけらかさないから美しいけれど、実体もなく議論もできないこととは話が違う。

日本の極悪官僚システムのニュースには改めてあきれ返る。あれだけ国民を馬鹿にした役人が大挙して私欲をむさぼっているという現実には怒りよりもすでに閉口する思い。天下りだの談合だのタクシーだの、国民の税金使いまくって。その彼らはそれなりにエリート意識をもった一流である方々。お笑い。あんなのただのブラサガリ族。

厳しい受験を勝ち抜いて得たはずの役職で、貴重な人生の時間を使ってそんなコソコソとした盗人のような感覚しか持ち合わせていないのか。棺桶に入るときそれでも自分の生きた時間を誇りに思えるのか?そんな盗人を養成しているのが日本の教育の実態なのか?

はっきりいって、そのくらい蔑まれても彼らには反抗する気も起きないだろう。そのほうが得な人生だし、エリートだからできる特権くらいに思っているのだろうから。


誰でもそんな悪習を変えてほしいと国民は感じているはずだけれど、なぜ数十年もの間まったく変わらないのか。それは国民もそうだからだ。全員とは言わないけれど大多数の国民が同じ感覚で生きているからだ。変えたいなら選挙という手段でいくらでも国政は変える権利が国民にはある。でも、選挙すら行かない。それどころか、おそらく自分がその役職にあれば多くの人間は同じ盗人の気質に染まっていくのが日本国民に思えて仕方がない。自立した個というテーマを持たないからだ。

ニュースで出てくる賄賂や横領に、憤りを感じては見ても変える行動はできない。一度汚職で下野した政治家がしっかり次の選挙で再当選して戻ってくる摩訶不思議な国。それを選んでいるのは紛れもない国民。怒りを感じてみるものの、ニュースが終われば一日中流れ続けるお笑い番組で笑ってすごす。笑うのはいい。でも、笑えない現実を忘れるのは許されない。であっても、議論すらせずに忘却されていく。

ポリシーを持たない国民教育だったからとも言い切れない。教育の話の前に、国家に理念が存在しないのではないか。国自体が謙虚に見えても、実は実体としての自立性を失っているから起こるようにすら思える。平和であることと、アイデンティティを持たないことが同居する国、それが日本に見えるのだ。その上この国の平和は、実は自ら作った果実ではなく他国に守られることで成り立っている。これではアイデンティティは生まれない。自立のない国家に自立した個は育たない。自立する個のない民に議論は生まれない。議論できない土壌に、国を変える力も気力もない。


大学を出てから自分も汚職や横領の存在は知った。会社の金で遊びまわることもあった。でもすぐ終わった。それがただ空しかったから。自分の血や汗で得た少しの金や自由な発想のほうがはるかにうれしかったから。だからもう無意味な金や地位には興味もないし、そんな不毛なゲームをしている日本の役人にも関心もないし近寄りたくもない。

しかし、税金をただ使って楽をする役人や政治家をなぜ日本人は変えようとしないのだろう。議論して未来を暮らしやすくする努力をしないのか、そして間違っていると思うならなぜ自分の意見やアイデンティティを国や自治体に反映しようとしないのだろう。それをしなければ、いつまでもエリート意識で染まった卑しい役人の天下は続く。そして、そんな役人が作る国家には自立したアイデンティティは育たない。なぜなら、彼ら全員が自立していないからだ。国税という大樹に隠れて一般の民を笑いながらエリート人生を楽しむような稚拙で邪な人種でしかないからだ。そこには国家や人格に対する理念すら存在しない。

しかし、彼らを選択しているのは結局は日本国民。
謙虚なのではない。日本国民自体がまだまだ実体を持たず、真の理念すら知らず、そして人間の責任と天命を全うする喜びを知らないだけなのではないか。単に強国に平和を与えられて、それをユートピアにして生きているだけではないのか。日本人は真の喜びをいまだ知らぬ民なのではないのか。真摯な議論を知らぬ民族なだけではないのか。黙っていることは単に話せないからではないのか。


礼儀や節度といった日本の美風はいまだすばらしいと思う。しかし、それは何もせずに黙っていることがいいということではない。それでは悪の権化のような官僚機構の思う壺。病んだ社会を立て直すには民が自立して意見を語るまでにならなければ永遠に病巣は摘出できないのではないか。単に社会の異分子になって個を主張しているかの錯覚をする若者、社会の規律を守れない大人、エリートになった意識で公然と盗人になれる官僚や政治家。それを美風という土壌が議論を排除しているなら、大きな間違いでしかない。美風という言葉の影で、モラルとしての自立が崩壊しているのではないか。そうだとすれば自浄作用がすでに日本からは消えているようにすら思えてしまう。なぜなら、社会の全階層において自立する個が存在しなくなってきているから。

勝手な独り言なので、自分でも正論を言っているかどうかもわからない。ただ、久しぶりに日本に生活していまだ変わらないこの国の未熟度には驚きを通り越してしまった。すくなくとも今まで暮らした自由の国々にでは、官の悪行に対しては健全な国民の議論と自立する国家の誇りが自浄作用となって少しずつでも方向を正すことができる。

これだけ、悪が目の前にあるにもかかわらず一日中お笑い番組流してるメディアも薄ら寒い思いがする。楽しく生きるのは誰でも望むところなのだろうけれど。

とはいえ、いまだに自分の母国であり最愛の人たちが暮らす国なのだ。





ブログは休止中。だが今、精霊への黙礼。

秋葉原での凄惨な事件に言葉を失った。
凶悪という言葉を超えて、説明の付かないほどにまで瓦解してゆく人間の姿に絶望的な空しさを覚えた。心の原型がすでに微塵も残っていない抜け殻を前に、この社会は何をもって正義と罪と罰を語るのか。悲劇でしかない。

かつて美しく静謐の調和とともにあった民の御心はすでに幻となってしまったのだろうか。



今は無残にも犠牲となった方の精霊が安らかに天に昇らむことを清廉な倭の魂を持って祈る。




6月にまた日本に一度帰ることにした。
家族の健康状態などもやや心配になってきたし、仕事での話もそれなりにたまった。

日本に帰るときに思うことだけれど、俺は結構国粋主義者だってこと。日本だけで終わりたくないみたいな、若造の成り上がりでここまできたけれど、結局は心はいつも日本という観点から離れていない。たまには、日本人という狭い概念も払拭したい気もするけれど、どこかしらにはその気持ちは潜んでいる。まあ、これは単なる愛国主義とはちがうんだけど、難しいだろうな。自分でも言葉では納得しにくい。

でも、今はそんなことにも下手に抵抗しなくなった。それが自分の成長した過程だったし、それが今も自分を支えている柱のようなものだ。なくなってしまったらきっと寂しいし、中心の部分のなにかも失うのだろう。


最近は本当に国際情勢や日本での情報も流れが速い。もう、俺がかつて高校生や大学生の時代とは違う。時代が変わったのではなく、俺自身が知らぬ間に遠いところに流れ着いてきたということかもしれない。

こんな精神論のような世界は世代も変われば今ではお笑いの対象かもしれないけれど、俺もやっぱり古い人間なんだろう。与えられた時間はもう少ないけれど、せめて可能性があるなら全部出し切っておきたいような気がしてならないのだ。

国粋主義が変わらないように、ジョンやポールに出会えたから生まれた価値観もこれからずっと変わらないのだろう。それを背負ってしまったから、感動のような心の満足を捨てたくもないのだろう。

しばらくの間この日記(ブログ)からも離れようと思う。
日記なので、特に思い出にしたいことでもあれば書くときもあるかもしれないけれど、それよりも一度これからの残った時間の旅程、かっこつければ残りの人生計画でも少しは考えようと思う。

まだ若いとはいわないけれど、抱きしめたいを聞いたときの感動は今も鮮明なまま。
最高の感動をしるなら、それを持続してみたいだけなのだ。幼稚だろうけれど、それもいまさら変わらないから抵抗しない。

これから出来ることに満足できるかどうかわからないけれど、初めてジョンレノンの声を聞いた時の状態のままこれからも年をとっていきたいと思っている。




PS. お読みいただいてきた方、しばしのお別れですがお許しください。本当にありがとうございました。皆様のコメントは心に沁みました。なんとか数ヶ月で再開できれば、とは思っています。







Life is very short and there's no time.


これは当然WE CAN WORK IT OUTの歌詞だけれど、ちょっと今日はこれが気になってしまった。
ニュージーランド人とイギリスから移住してきた連中と話していて、この文句が出てきたから。
こっちの人たちはとにかく、なにかあると Life is Shortという。だから楽しいことをたくさんやろう。ということらしいけれど、別に間違っているわけではない。

何が気になったかというと、我々日本人はしばしば「人生は長い」という。
それも根底の思想は違っていて、「栄枯盛衰もあるし、つらいこともあるけれど、がんばれ。人生は長いからまだまだがんばれば何でもできる」そんな感じで使ってないか?少なくとも俺の周りはそんな意味。

日本人の人生観は、努力して、めげずにがんばって、一人前になる。それまでは人生は長い。
対して、こちらの方々は、どんどん楽しいことしてあたらしこともトライして後悔しないで生きよう。人生は短いんだから。

日本人=涙
こっちの人=笑顔

こんな違いすら感じたのだった。

どっちがいいとは言えない。人生観そのものだから。でも、日本から天才がなかなか生まれないのもちょっと理解できた。優秀な人は多いけど、なんたって努力して涙流せる民族だから。でも、才能で遊んで生きていくようなまさにビートルズタイプの土壌はなさそうだ。

もし、ビートルズみたいな笑いと適当な生活で流して、でも才能だけは凄いから出世していく、そんな奴はむしろ珍しいし、嫌われるのかもしれないなあ。「なんであいつだけ楽してる!?」みたいな国だからな、日本は。

俺もすでに笑い話ではなく、人生は短い、と実感する年になった。
これからはできるだけビートルズを見習って笑いと楽しみ中心で生きていくことにする…

でもおそらくすぐ頓挫しそうだな。それやってると本当に金がなくなるから。
ボノの声明ちょっと嫌いだなあ。
国の税金出費はどんな形であろうとまずは国民の犠牲の上になりたつ。
人の国の批判より、自分の全財産出してからそういうことでも言ったら?

批判じゃなくて協議するならいいだろうけれど。ならば、記事を一読して
不快感もおきないだろう。

でも一方的な批判だとしたら日本の中で生活苦で死んでいく人すらいる
現実を知らない人間としか思えない。ボノのような財をもった理想主義者
になりたくても明日の生活で苦しむ人が日本にだっているのだよ。
その人たちでも税金は払っているということ。

以下引用:

アイルランドの人気ロックバンド「U2」のリードボーカルで、アフリカ支援活動で有名なボノさんは28日声明を発表し、アフリカ開発会議(TICAD)で福田康夫首相が打ち出した対アフリカ政府開発援助(ODA)を倍増するとの支援策について「2国間のODAだけでなく、国連などを通じた多国間のODAも同時に倍増すべきだ」と批判、援助全体を倍増すべきと訴えた。

(共同)