奇才・天才少年ラディゲの面影

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 学生のころ衝撃的な文学に出会った。ラディゲというフランスの作家で、少年ながら鋭い心理描写と硬質な文章で、才能というものがどれほど人間の財産であることか思い知った。
 ラディゲは三島由紀夫(参考/ラディゲの死)も尊敬した、ある意味天才に愛される作家でもあるけれど、なぜならラディゲこそ本当の天才だからだろう。「肉体の悪魔」を少年にして書き上げ、成人する頃には人の心理を恐ろしいほどに知り尽くした分析を見せた「ドルジェル伯の舞踏会」をあっさりと書き上げてしまう。

 この小説「ドルジェル伯の舞踏会」ではフロイト(参考/フロイト全集)やユング(参考/ユング心理学入門)といった学者が見せる分析ではなく、あくまで直感的に天才だけが知る人間の心を鋭い言葉で完璧に表現していた。参った。本当に恐ろしく参った。同じ人間でなんと自分が小さく希薄な存在であることか、考えるだけでいやになったし、またもや才能のなせる凄さに驚いた経験だった。

 このラディゲの文章を読みながら思ったことは天才には努力ではなく、創作こそが宿命であるということ。努力はあくまで凡人の自分たちがすることであって、天才は才能を出し作ることこそが天命であり、それは努力ではなく創作する宿命として、ある意味では誕生とともに義務付けられているという風に思わざるを得なかった。

 少年、青年にして世界を驚かせた天才はラディゲだけではなく、モーツアルトもビートルズも同じだ。そして天才達は、当たり前のように創作しそれをもって凡人を愕然とさせ、驚嘆させる。

 驚きは常に凡人にある。だとすると、天才は驚くのではなく、才能のエントロピーを喜ぶだけなのだろうか。天才の尺度は継続する時間ではないと僕は思っている。ラディゲもまたんモーツアルトやジョンレノンのごとく若くして死んだ。しかし、若くして表現された青二才の作品であっても、その才能は誰もいまだ超えることは出来ない。
 天才は生存した時間では計れない。美しき才能に乾杯。それが凡人の自分の喜びかな?

 
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