ジョンとジョージ、そして俺を刺した蜂

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今日、なんと蜂にさされた。おそらく数十年ぶりだろう。
庭で遊んでたらこのザマ。

でも、考えてみると東京にいるときは蜂にさされるなんてことはなかった。庭もなかったし、自然と接している時間すらなかったということだろう。何十年ぶりかで自然の痛みを知った。


傍らに目をやると、生命の使命を終えたミツバチが息絶えていた。自らの毒を放って、自分の種を守る。こっちは痛いけれど、痛みを忘れて蜂に拍手を贈りたい気持ちになった。生命は自然とともにあり、種とともにある。生命の美しさ、厳しさ、尊厳。大袈裟かもしれないけれど、そんな当然ともいえることを蜂の一刺しで思い出した。

蜂は一瞬で生命を終えた。
俺はまだ生き残った。

でも、生命が長いから素晴らしいわけでもない。短くとも生命の使命感を持ち、それを終えてゆく宿命、あるいは天命をまっとうする生き物の寿命に長短では測れないものは間違いなくある。

長い時間を送ることは意義はあることだ。それだけでもなにか美しい時間を持つことはできる。でも、ジョンレノンが短命で天命を終え、ブライアンエプスタインが若くして死に、ブライアンジョーンズも、ジャニス・ジョップリンも、ジミ・ヘンドリックスも、マリリンモンローも、ジョンFケネディも、そしてジョージハリスンも短い時間を終えていった。彼らの短い時間は今も輝くことを終えていない。長く生きても、輝きが消えてゆく宿命と、短い生のときであっても永遠の光を放つ天命。

どちらが素晴らしいともいえない。輝かなくとも満足な人生や時間もあるから。

でも俺が今日蜂を見て、瞬間の絶命に賛美を贈ったのはまちがいなくジョンレノンやジョージハリスンが輝き続けている今を知っているからだろう。彼らはいなくとも光は永遠に残る。そして、蜂は死して種を守り天命を終える。

俺は今も行き続けるけれど、天命としての最期はどんな形になるのだろう。
最期を終えても、何かしらの光を伝えられるのだろうか。誰かに俺の天命を感じてもらえるのだろうか。それができないなら、ジョンやジョージどころか、蜂の絶対的な生命感にすら追いつけないのではないか。

人間は付加価値という価値を背負い、生物としての宿命以外に理念や責務としての天命を生きながらに知る。

ジョンやジョージの輝きと蜂の与えられた力をふりしぼった最期。
そのどちらに対しても、まだ生命と魂の必然の一片すらも、今の俺には理解できていない。

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